人と感想をシェアできない
先日テニミュを観てきました!
とてもとても楽しかった!
新しいテニミュという言葉が先走っている印象があって、正直不安は拭えなかったのですが、やっぱりテニミュはテニミュ。
彼らがジャージを纏ってキラキラ歌い踊り演じてくれることは変わらず、歌もダンスも芝居も全体のレベル感の底上げが著しかったです。
これが6800円で観られてしまうなんて…
少しでも多くチケットを買って、テニミュに貢献しようと心に決めた私でした。
しばらくテニミュの熱冷めやらず、ずっと自分の本垢であーだこーだと呟いていたのですが、今それが冷めて自己嫌悪に陥っています。
今日はそうした自分の心の動きについて書きたいと思います。
私は元々自分の感想を世の中に伝えたいという気持ちが薄く、
また、その逆で他人の感想を読みたいとは思わないという傾向があります。
私は非常に共感性が高く、誰かがこうだと断じている言葉を見てしまうと、自分がそれに引っ張られる感があり、自分自身のフラットな感情がどれなのか理解できなくなってしまうという気質があります。*1
せっかく自分が自由に感情を抱ける事柄に関しても、自他の境界が曖昧になってしまうことで、何を感じたのか不明確になることが非常に辛く、基本的に自分が観た舞台の感想などは敢えて目に入れないようにしています。
そういう傾向が同担とお付き合いできないことに繋がってしまっているんだなあというのも実感します。
私は私の目で見た推しだけが自分の中に存在してくれればいいのであって、
他の人の解釈で捉えた推し像を敢えて教えてもらいたくはないのです。
みんなそれぞれの解釈を抱いていればいいじゃないか…と思っていますが、世の中の大半の人って、むしろ個々の解釈とか感想をシェアしたがりますよね。
ですから私のいる界隈の人も「推しってこうだよね!」「推しにこういうことしてもらったの!」とオンオフ問わずに積極的に主張してこられます。
私はそれが非常に苦痛で…
そういう情報を無尽蔵に流されることで、自分の見てた推しってどんな感じだったっけ?ってなんだか不明確になる、不安なような、地に足の着いていない感覚になります。
これを今文章にしているのは、
「もしかすると、普通の人はこういう感覚にならないのかもしれない?」
と遅まきながら感じたもので…
自他の感想がないまぜになるような感覚がなく、自分はこう感じている、この人はこう感じている、という明確な境界線があるのなら、
人の感想を積極的に取り入れて、自分の感じたものと照らし合わせることも納得できます。
この考えに至るまで、
「どうしてみんなは人の感想や解釈を見聞きするのがそんなに好きなんだろう?」
と、疑問でしたが、
そもそもみんなは自他の境界が曖昧になることがないのだと気づいたことに、静かな衝撃を感じています。
羨ましい。
それって自分の聖域を自分で守りながら、人と交流できるってことの現れじゃないでしょうか。
私がそれができる人と同じようなことをしようとすれば、身を切ることになるでしょう。
自分の抱いている感想を切り売りして、引き換えに他人の解釈が自分の中に流れ込んでくる。
それは、私にとっては相手への好悪に関係なく、とてもストレスを感じることです。
言語化できているのは今が初めてですが、きっとストレスになるだろうことが予めわかっていたので、私は他の人と感想をシェアすることを避けてオタク生活を営んできたんだなあと感じます。
なので人から感想を聴くことをシャットアウトしている分、自分も自己解釈を人に押し付けることはすまいと過ごしてきました。*2
ですが、ここで傾向が顕著に出てしまって、自分の中で「テニミュ楽しかった!」という感情がヒートアップした結果、TLで延々テニミュの感想を垂れ流す人になってしまったのです。
私と繋がってくれている人たちは、私のように文章であれこれをこねくり回すタイプではない人ばかりなので、TLに限界オタクの大興奮ツイートが3日間流れてくるなんてことはしないんですよ。
それなのに私は一方的に感情の高まりによって三日三晩テニミュツイートを繰り広げてしまった。
先述した理由から、私は同じように他の人の解釈や感想をそのまま受け止めることなんてできないのに…。
とてもアンフェアなことをしてしまったという罪悪感があります。
フェアプレイができないことは私にとって非常に恥ずかしいことで、自己肯定感が下がります。
ツイートするのを一度収めてみると、
「別に私は人にこの感想を承認してもらいたいわけじゃないんだな」
と捉えることができました。
それだったらフォロワー0のアカウントでつらつら呟くなり、
こうしてきちんと文章に起こして、ブログにする方がいいのかもしれないと思います。
ただまあ、全世界的に自分の思うところを公開することにためらいがあります。
私はいつでも自分が考えていることや自分の気持ちを不特定多数の人に承認してもらいたいとは思っていないからです。同様に否定もされたくない。
ジャッジを求めているわけではなくて、私の脳内で繰り広げている電波ラジオを流させてほしいだけで、チューニングが合わなければそれまででいいんです。
人に自分への配慮を求めることはできません。
今日言語化できたことを意識のどこかに留め置いて、自分自身にとって適した感情の整頓の仕方を、模索していきたいと思います。
いきなり随分暑くなりましたね。
夏は自律神経が弱るので非常に苦手な季節ですが…
朝ひんやりと冷えた部屋でもう一度布団にくるまる瞬間や
日陰に入ってほっとする心地
遠くから蝉の声が聞こえて、雲が大きく伸びている姿
部屋の中から眺めた眩しい日差しなど
自分の中の夏の心地よい瞬間を集めていきたいと思います。