このちっぽけな世界から

零細オタクの忘備録

現実にミュート機能搭載はよ

先日現場があり、大変楽しい時間を過ごしてきました。

こうやって割と普通に現場がある生活が送れていて、新鮮な気持ちです。

昨年なんてもう現場は復旧せず過去の文化になってしまうのかな…と思っていましたが、案外経済っていうのは元の形に戻ろうとするものですね。

 

昨年現場という楽しみが激減したころ、

「オタクは現場以外の楽しみを見つけ、現場に割くお金は減っていく。

その過程で降りるオタクもいるだろう」

という論をよく目にし、私自身もそうなるだろうと思っていた節がありました。

 

現状、以前と全く同等という感じはまだしませんが、順調に現場が繋がっている感覚があるので、この頃の推論を自分が全くトレースした行動を取っているか?というとそうでもありません。

ただ、コロナを経て「いつか終わる趣味で、ないならないで生きていけるものなんだな」ということは骨身に沁みたところがありますので、

以前と全く同じ感情や熱があるか?というと、突き詰めればやはりもうそこには戻らないのかなあという感じがあります。

ある意味そういう諦め?のようなものが全身を貫いたことで、ある意味前より楽に楽しめている気もしますが。

 

 

さて、現場に行くと付き物なのが同担の存在ですが、

今回も私にとってはストレスの要因だったので、なるべく彼女たちを視界に入れないようにすることに難儀しました。

 

自分自身のブログにも少し触れた点なのですが、私がとにかく同担が苦手な大きな要因は

「その人の解釈を脳内に流し込まれるのが苦痛」

という点が最たるものになります。

ambrevanille.hatenadiary.jp

 

どんな本でも映画でも、人の数だけ受け取り方があると思います。

でもそれが対人になると、突然全員にとって同じように見えてないということが理解できていない人が現れませんか?

 

私が特に我慢ならない同担は

「推しくんって○○だから!」

という主観をのべつ幕なしに押し付けてくる人です。

 

例えば会話のやりとりで

「推しって○○なところあるよね」

「わかるー」or「そうかな?」

なら不快感ないわけですよ。

 

彼女の苦手なところは

あくまで自分の主観にしか過ぎない推しの解釈を、たった一つの真実かのように主張するところです。

会話になってない。主張。

 

私にとって見えている推しは、私の目を通した存在でしかなくて、その時点である意味推し本人とも乖離した存在なんですよね。

だから、私が「この人はこういうところがあると思うなあ」と思うのは私の主観でしかないという前提です。

その上で「わかるわかる!そういうところあるよねw」って共感してくれる人が

いわゆる自分と気の合う人、感性の合う人なのだと思っています。

 

普通にお付き合いしている友人でも、感性の合う人を学校や勤め先の団体の中から選び取ってお付き合いしていると思うんですよ。

だから同担だって感覚が近い人とだけ付き合いたいって思うんですけど、

オタクという趣味においてはなぜかそういう選別行為はあまり良しとされないですよね。

 

先述の苦手な人はそういう選別行為を行わずに、同担は誰とでも仲がいい!ということを自分のセールスポイント(?)にされているような節がありますが、

その実、少し会話してみれば

「推しくんは○○だから!」

「推しくんはいつもこうだから!」

の主張の繰り返しで嫌な気持ちで胸がいっぱいになります。

 

私に見えている推しはそういう人じゃないし…とか、

いつもそうじゃないでしょ…とか心の中では思うんですけど

そこはそれ、オタク文化の不文律で積んでるオタクにだけ発言権があり、弱いオタクは黙るしかない、という暗黙のルールがあるじゃないですか。

だから一方的に言われっぱなしで許容するしか解はない、と思っています。零細オタク的には。

 

私はそういう声の大きな人ほどお金を出すことは絶対にできないので、

その人たちが発言権があり、現場を仕切ったりするのは仕方ないことだと思います。

その権利を買っているともいえるしね。

 

でも、その逆を言えば、私のチケットはその人たちに買ってもらったわけでもなし、

自分の自由な感想や解釈があったり、それを押し付けることなくひっそり一人で楽しむ権利はあると思うんですよね。

 

しかし声が大きくて積んでて、同担とみんな仲良しをやってますって人が関わってくれば、こちらは一方的に気を使わざる得ないわけですから、ただの接待なんですよ。

楽しいのはあなただけ。

そもそものパワーバランスが異なっているし、自分自身でもパワーバランスに大きく差があることを理解している振る舞いをしているのに、

「みんな大好きなお友達です!」

と言うのは詭弁だな、と感じます。

 

彼女のお友達の輪に参加するということは、

自分の解釈や自分の心の中に踏み込まれ、その人の解釈(自分と完全に解釈違い)の言葉で殴られ続けるような感覚になります。

 

だから申し訳ないけど私はその人が苦手です。

他人のフィールドへの尊重がない。

 

 

直近の現場は収容された人数も少なかったですし、公演内容的に貴重なものだったので、私にとってはよりその人に穢されたくないという気持ちが大きかったです。

私だけの受け取り方や私だけの解釈を大事にしたかった。*1

 

それでも現場に行けば皆さんがお友達だから、大声でいつもの推しに関する唯一の主張が耳に入ってくるわけなんですよ。

たまらなく苦痛でした。

終始耳に入ってくる解釈違いの大声でしたから…。

 

いくら言葉で同担拒否だなんて言ったって、現実はSNSとは違うから

苦手な人をミュートすれば話してくる内容が聞こえないなんて機能はない。*2

とにかくなるべく遠くに居られるように、今日はタイミングが合わなくて遭遇せずに済みますように、席が近くありませんように、

いつもそんなことを祈りながら現場に入ってて惨めになります。

その惨めさが沁みる時、一層彼女が大嫌いで私の世界から見えなくなって欲しいと願ってどうしようもなくなります。

 

でも、向こうも‘’何も悪いことなんてしてなくて、天真爛漫に楽しんでるだけの自分‘’

を許容しない人間なんて不快に思ってることだと思います。

私はそれ以外のオタクにも服装だの席だのファンサだのをチェックされてるようなので、

まあこんな難あり物件ですし、同担に対して優しい顔をして社交的に振舞っているわけではないので致し方ないなとは思います。

 

しかしまあ、そんな状況でそれに屈して降りたらそいつらが喜ぶじゃないですか?

それは嫌。

だから前みたいな熱気がなくても、楽しいこともあるし、なんか釈然としないし。と思ってこまこま通っている。そんな最近でした。

 

 

 

 

*1:このこだわりは自分が発達だからなのかなあ?と疑問です。他の同担の皆さんはなるべくお友達をたくさん作りたいみたいで、彼女とも仲良くやられているようなので…。自他の境界が明確であれば、誰が言っていることも「この人はこうなんだ」という着地で受け流せるのかもしれません。

*2:現実にミュート機能があれば嫌いな人なんて存在しなくなるのに。私は嫌いな人=関わる時間を全力でゼロに近づけたい人なので、見なくて済むならどこで何しててもいいです…。オタク以外のプライベートで何してるとかも興味ないし…。

人と感想をシェアできない

先日テニミュを観てきました!

とてもとても楽しかった!

新しいテニミュという言葉が先走っている印象があって、正直不安は拭えなかったのですが、やっぱりテニミュテニミュ

彼らがジャージを纏ってキラキラ歌い踊り演じてくれることは変わらず、歌もダンスも芝居も全体のレベル感の底上げが著しかったです。

これが6800円で観られてしまうなんて…

少しでも多くチケットを買って、テニミュに貢献しようと心に決めた私でした。

 

しばらくテニミュの熱冷めやらず、ずっと自分の本垢であーだこーだと呟いていたのですが、今それが冷めて自己嫌悪に陥っています。

今日はそうした自分の心の動きについて書きたいと思います。

 

私は元々自分の感想を世の中に伝えたいという気持ちが薄く、

また、その逆で他人の感想を読みたいとは思わないという傾向があります。

私は非常に共感性が高く、誰かがこうだと断じている言葉を見てしまうと、自分がそれに引っ張られる感があり、自分自身のフラットな感情がどれなのか理解できなくなってしまうという気質があります。*1

せっかく自分が自由に感情を抱ける事柄に関しても、自他の境界が曖昧になってしまうことで、何を感じたのか不明確になることが非常に辛く、基本的に自分が観た舞台の感想などは敢えて目に入れないようにしています。

 

そういう傾向が同担とお付き合いできないことに繋がってしまっているんだなあというのも実感します。

私は私の目で見た推しだけが自分の中に存在してくれればいいのであって、

他の人の解釈で捉えた推し像を敢えて教えてもらいたくはないのです。

みんなそれぞれの解釈を抱いていればいいじゃないか…と思っていますが、世の中の大半の人って、むしろ個々の解釈とか感想をシェアしたがりますよね。

ですから私のいる界隈の人も「推しってこうだよね!」「推しにこういうことしてもらったの!」とオンオフ問わずに積極的に主張してこられます。

私はそれが非常に苦痛で…

そういう情報を無尽蔵に流されることで、自分の見てた推しってどんな感じだったっけ?ってなんだか不明確になる、不安なような、地に足の着いていない感覚になります。

 

これを今文章にしているのは、

「もしかすると、普通の人はこういう感覚にならないのかもしれない?」

と遅まきながら感じたもので…

自他の感想がないまぜになるような感覚がなく、自分はこう感じている、この人はこう感じている、という明確な境界線があるのなら、

人の感想を積極的に取り入れて、自分の感じたものと照らし合わせることも納得できます。

 

この考えに至るまで、

「どうしてみんなは人の感想や解釈を見聞きするのがそんなに好きなんだろう?」

と、疑問でしたが、

そもそもみんなは自他の境界が曖昧になることがないのだと気づいたことに、静かな衝撃を感じています。

 

羨ましい。

それって自分の聖域を自分で守りながら、人と交流できるってことの現れじゃないでしょうか。

私がそれができる人と同じようなことをしようとすれば、身を切ることになるでしょう。

自分の抱いている感想を切り売りして、引き換えに他人の解釈が自分の中に流れ込んでくる。

 

それは、私にとっては相手への好悪に関係なく、とてもストレスを感じることです。

言語化できているのは今が初めてですが、きっとストレスになるだろうことが予めわかっていたので、私は他の人と感想をシェアすることを避けてオタク生活を営んできたんだなあと感じます。

 

なので人から感想を聴くことをシャットアウトしている分、自分も自己解釈を人に押し付けることはすまいと過ごしてきました。*2

ですが、ここで傾向が顕著に出てしまって、自分の中で「テニミュ楽しかった!」という感情がヒートアップした結果、TLで延々テニミュの感想を垂れ流す人になってしまったのです。

 

私と繋がってくれている人たちは、私のように文章であれこれをこねくり回すタイプではない人ばかりなので、TLに限界オタクの大興奮ツイートが3日間流れてくるなんてことはしないんですよ。

それなのに私は一方的に感情の高まりによって三日三晩テニミュツイートを繰り広げてしまった。

先述した理由から、私は同じように他の人の解釈や感想をそのまま受け止めることなんてできないのに…。

とてもアンフェアなことをしてしまったという罪悪感があります。

フェアプレイができないことは私にとって非常に恥ずかしいことで、自己肯定感が下がります。

 

ツイートするのを一度収めてみると、

「別に私は人にこの感想を承認してもらいたいわけじゃないんだな」

と捉えることができました。

 

それだったらフォロワー0のアカウントでつらつら呟くなり、

こうしてきちんと文章に起こして、ブログにする方がいいのかもしれないと思います。

 

ただまあ、全世界的に自分の思うところを公開することにためらいがあります。

私はいつでも自分が考えていることや自分の気持ちを不特定多数の人に承認してもらいたいとは思っていないからです。同様に否定もされたくない。

ジャッジを求めているわけではなくて、私の脳内で繰り広げている電波ラジオを流させてほしいだけで、チューニングが合わなければそれまででいいんです。

 

人に自分への配慮を求めることはできません。

今日言語化できたことを意識のどこかに留め置いて、自分自身にとって適した感情の整頓の仕方を、模索していきたいと思います。

 

いきなり随分暑くなりましたね。

夏は自律神経が弱るので非常に苦手な季節ですが…

朝ひんやりと冷えた部屋でもう一度布団にくるまる瞬間や

日陰に入ってほっとする心地

遠くから蝉の声が聞こえて、雲が大きく伸びている姿

部屋の中から眺めた眩しい日差しなど

自分の中の夏の心地よい瞬間を集めていきたいと思います。 

*1:お察しかもしれませんが私はASDなので感情にまつわる事柄の整理が不得手です。

*2:自分がやっていることが“フェア”かどうかにも非常にこだわりがあります。自分ができないことは人にも求めない。相手が払った分の労苦を自分も同等に払っていないと罪悪感を感じるなど…。

1万円の価値って

推しの新しい仕事が発表されました。

また舞台に出演されるとのこと。めでたい!

オンラインの何やってんだかわからないお仕事に比べたらちゃんと板の上に立ってくれることのなんと喜ばしいことか!

 

と思っていた私でしたが…

 

突然なんですけど皆さん1万円あったら何したいと思いますか?

私はサーマクール受けたいなあ。ちょうど1万円くらいで当てられるんですよ。

サーマクールは肌だけじゃなく骨の老化も予防してくれるらしくてめっちゃ当てたいんです。

それか、下地と合わせてポーラのマーブル柄のファンデーション買おうかなあ。

スナイデルで春夏のワンピースも買いたい。

家で料理することが増えたし、フライパンのテフロンが剥げてきてるからティファールの9点セットも買いたいなあ。

 

1万円、って言葉にすると本当にいくらでもやりたいこと欲しいものって思い浮かんできますよね。

それを一瞬で無に帰す存在、そうそれが推しの舞台です。

 

私は自分の身近でのコロナの大きな弊害の一つがチケットの値上げだと思っているんですよね。

もちろん座席の間引きや、これまで通りの観客動員を見込めないから、勢い一席当たりのチケット代が高くなるのは致し方ないとは思うんです。

でもそれと自分の経済力はまた別の話です。

 

エンタメ業界が過酷な状況にあることはわかりますが、こちらもない袖は振れないわけで…。

まあ、ない袖は振れないっていうのは誤りですね。

無理すれば振れるんですよ。いくらのチケット代だったとしたって。

 

先述した楽しみを全てそぎ落として、日々の食事を切り詰めて、外食も外出もしないようにすればチケット代はいくらでも捻出することはできます。

でもそれが果たして払えている、人として生きている、って言えるのか自分で疑問です。

 

そもそもエンターテイメント、観劇っていうのは余暇の過ごし方の一つであって、

余剰な時間やお金を使って楽しむものですよね。

余暇のために日常生活を圧迫させるなんて、本来本末転倒なわけで…オタクはみんなそれをわかっているわけで…

でもみんなそうとわかっていても食うものも食わずにチケットを買ってしまうのがオタクの悲しい性。

私もこれまでそうして過ごしてきました。

 

でも、それができていたのってチケット代の平均が5000~7000円くらいまでの舞台だったからなんじゃないかと思い始めました。

1公演が額面7000円くらいまでだったとしたら、「月に何回かの楽しみだし」ってほぼ脳死でチケット集めてしまっていたんですけど

あの頼りない小さな紙切れ1枚が1万円って言われると、突然重みを感じます。

2~3時間くらいの出来事に1万円を払うんだ…?と。

 

実は先だっても1席1万円の舞台に行ってきたんですね。

若手俳優大集合系の舞台で、質としては拘って作られたのが伝わるような作品でした。

見せ場も様々にあったし、ストーリーも面白かった。

 

その上で感じたのが

「けして1公演1万円相当の舞台ではない」というものでした。

 

チケットの代金って、演者さんの力量だけでは測れないと思うんですね。

脚本演出はもとより、音響や舞台装置、抑えている劇場も含めてのチケット代だと思うんです。

それらを総合的に判断して、私の素人目から見て

若手俳優が大勢キャスティングされるような舞台で、1万円相当だと納得できる作品があるとはあまり思えていません。

 

こうした考えが浮かんできたきっかけに、最近友人が誘ってくれたことをきっかけに某歌劇団の舞台を観劇したことがあります。

私が中高生だったころに母に連れられて足を運んだ場所でしたが、大人になって踏み入れてみると世間と隔絶された別世界でした。

お芝居も繊細華麗なミュージカルで、美しい出演者方々がきらびやかな衣装を纏い、生オーケストラで歌い上げ、華やかに舞うという、まさしく夢の世界そのものでした。

 

そうした作品が1席12500円、1万円で販売されているのを見ると、

「どこの面から切り取っても最高品質を提供されているのだから妥当だよね…」と感じられました。

 

これまで1万円のチケットを販売するプロジェクトって、錚々たるメンバー、自前の劇場を所有しているだとか、ここならばという名だたる劇場で上演される作品、ブロードウェイ輸入作品や、音響やセットに惜しみなく投資しているなどの舞台が主だったように思うんですね。

それがコロナで席の間引きを機に、そこまでの設備投資をしていない、できないプロジェクトも、結果的に1席1万円の商圏に参入してきたという流れのように見受けています。

 

これまで高くても1席8000円代くらいがボリュームゾーンだった若手俳優中心の舞台作品と、1万円以上のチケットも売り出す高級な作品とは訴求している層も異なりますし、

価格帯を分散させることで競争しないという向きもあったのではないかとないかと素人目には思います。

比較的安価な舞台は主に若手俳優が主となって構成し、キャリアを積んだ人は徐々に高級な舞台へ、そして最終的には帝国劇場へ…というのが私も知るところですからね。

そうしたステップアップが業界内で認識されているとすれば、

なおさらステップアップの先の高級な舞台と、若手のチャレンジングな舞台がバッティングすることは、本来狙っていたことではないように思います。

 

しかしこうした情勢ともなれば、いずれのプロジェクトもまずは公演を打つことが先決となり、動員できる人数に限りがあるとなれば、

穴が開いた部分を価格調整で埋めるしかないとなるのも致し方ないと思います。

 

ですが、冒頭で書いたように、エンタメ業界の置かれた状況を理解することと

それに応じて自分がお金を払えるのかは別の問題です。

 

先述した1万円の若手俳優の舞台は、層の薄さ、セットの軽さ

何より音響の貧弱さから相当して、けして1万円相当ではないと感じました。

出演されている方々は真摯でしたし、楽しめるように作られた作品でした。

でもやっぱり、そういうことだけで値付けに妥当性を感じられるわけではないなと実感するものでした。

 

いよいよ次は推しが1席1万円の舞台に出演する番です。

この発表にあたり、私は今回の作品に関してはひとまずチケットの申し込みを見送ることを決めました。

作品のあらすじ、脚本演出、劇場、推しの役、全体のレベル感などを総合して、

確実に1万円支払って不満足を感じるのが明白でした。*1

だったらそのお金でディズニーのチケット買った方がいい*2

1万円で服を買えばいい

そしたら数か月は着れる、物によっては数年は着れるかもしれないし、

家族と焼肉に行ってもいい、そしたらおいしいだけじゃなく思い出にもなるし…。

 

ホテルでアフタヌーンティーしようが、バリ風のオイルマッサージ受けようが美容院でトリートメント受けようがなんでもいいんですよ。

 

つまるところ、チケット価格が値上げされたことによって

これまで自分の中で推しと競合になり得なかった様々なものが、推しと比較される対象となり始めています。

推しが一番!推しの為なら少しくらい我慢したって…と思っていましたけど、

やっぱり3時間足らずのことに1万円支払うと思うと、ホテルのデイユースの方がマシだなと思ってしまうようになったんです。

それくらい、裕福ではない私に1万円という金額は重いものでした。

 

そんな形で私は脱落していくんですけれど、

それでも推しのためなら惜しくはないって高いチケットを購入してくれる人はいるでしょうし、1万円が重たい金額ではない裕福な人もいると思います。

私はそのいずれにも属せなかっただけなので、このこと自体に悲しみは感じていないんですが…

ただ、コロナのワクチン接種などが始まりつつある中で、仮に動員数などの制限が撤廃されたとしても、一度値上げしたものが元の金額に戻るってことはまずないと思うんですよね。

 

そうなると、私にとって観劇はけして気軽なものではなく、

かなり厳選したものにごくたまに足を運ぶくらいの高尚な趣味となるでしょう。

一つ一つの厳選が難しければ、クオリティが保証されているものだけに行こうとなるかもしれないし…

つまり若手俳優たちのチャレンジングな作品に触れる機会が著しく減るのではないかと予感しています。

 

私にとっては舞台作品に触れるきっかけが2.5次元ミュージカルを始めとした若い力の集まりである作品群だったので、

それらも中々手の届かない存在になるのだと思うと一抹の寂しさは感じえませんが…。

これも時流、受け入れるしかありません。

 

一方で、致し方なくにせよ1席1万円という値付けをするからには、

それを提供する側はそれなりの自覚を以て作品作りにあたっていただきたいと願います。

結果的にせよ相当な額をこちらに請求するのですから、こちらにとってもそれなりの期待感が生まれるのは当然かと思います。

運営側としては最終的な採算に着目しがちなものかもしれませんが、

その収益を構成する母数が大きく減っていること=一人一人の負担額が大きくなっていることこそに思いを馳せていただきたいと願います。

 

 

できる範囲でゆるくエンタメを観に行くというのも、私にとっての新しい生活様式の一つです。

日々の丁寧な料理、家事、お花を飾ったり、韓国ドラマを観たり、ゲームをしたり、自分のメンテナンスに行き、家族や友達と出かけること*3

それらの中に推しという存在がいてくれること。

これが日常の陽だまりです。

これからも私の生活の彩りの一つであって下さい、推しよ!

 

 

*1:あと…共演者に女性アイドルや女性声優さんがいる現場が苦痛通り越して恐ろしくて、それも見送る大きな要因の一つです。恐縮ですけどそれらの方々の男性ファンの一部がマナー・モラルに欠けていて…数時間近くに居られる苦痛は言葉にできませんね…。

*2:チケット代金がディズニーチケットと同価格帯かそれ以上の作品は、ディズニーに行った以上に楽しませてくれるんだよな?という1ディズニー方式での換算をさせていただいております。

*3:数年遅れにて「キム秘書はいったい、なぜ?」とドラクエ11にハマって日々の潤いとなってくれています。

人として「生活する」ということ

コロナ以前・コロナ以降で自分の中で変革があったなあと思う箇所、

それはお金や生活に対する価値観だったと思います。

 

これまでの私は、平日は嫌々働いて、早く週末にならないかなーと思って過ごしていたし、

数ヶ月に1回の現場を楽しみに、現場のない毎日をどうにかやり過ごしているような生活でした。

 

もちろん日々に多少の楽しみや彩りもあるわけなんですけど、そんなの推しを見ることや現場に比べたら全然大した刺激だとは感じられなくて、

現場にいる瞬間こそ生きてるってことだ!と考え、日々を極めて消費的に過ごしていたなあと思います。

 

コロナで自粛が余儀なくされた頃、私はたまたま生活環境が変わったこともあり、日常の生活をどうにかして楽しまなくてはならない、自力で充実させなくてはならない、という環境に置かれました。

 

現場という現場が消え、推しの芸事を見る機会もなくなり、

あれ?今まで私って現場のない時間をどうやって過ごしてたんだっけ?と思い返すと、ほとんど何も思い出せなかったんですよね。

それがものすごく怖かったです。

 

「私って現場のない時間を気絶して生きてるも同然だな…」と愕然としました。

 

楽しみのない生活は無味乾燥で、何のハリもなく、おしゃれをする理由もなく、何も考えないでいれば生きる意味を感じられなくなりそうでした。

そして、自分の中で唯一の楽しみであり、唯一の光であった現場は、いつ足を運べるのか全く見通しが立たない。

今まで口を開けていれば楽しみをポンポン与えてもらえていたけれど、それがいつ戻るのかはわからない。

 

そうだ、こんなにつまらない毎日が嫌で、もっと楽しく生きたい、もっとハリのある生活をしたい、

そう思うのなら与えてもらうことを待っていてはダメだ。

自分で、自分の力で、このつまらない毎日をどうにか楽しくしなくっちゃ!

だって、この生活がいつ終わるかわからないんだから、いつまた推しに楽しませてもらえる時間がやってくるかわからないんだから…

 

わからないものを期待して待つことは辛い、と感じました。

だからこそオタクとして生きるようになってから初めて、

自分の力で自分を楽しませる

ということを意識して生活を送るようになったのです。

 

 

と言っても、私が取り入れたのは本当に些細なことばかりで、生活の彩り…なんて言うのは恥ずかしいくらいのものです。

でも、子供の頃に憧れがあったけど、中々買ってもらえなかったおもちゃを集めてみたり、

それまでほとんど触れたことのなかった実況系のYoutubeを見るようになったり、

原点回帰的に直木賞受賞作を読んでみたり、

スーパーファミコンを購入してレトロゲームに凝ったり、

苦手意識の強かった料理も、いい包丁を購入したり、パイシチューを作ってみたり、お正月には人生初めてのお雑煮を作ってみたり…と、

私という何もできない人間の中では随分大きな改革と言えるようなことがいくつもチャレンジできたなあと、こうして書き表してみて感じます。

 

家で過ごす、ということに投資する

というのも初めて意識して過ごした日々でした。

私は見栄っ張りなので(笑)

これまで服飾費はよそ行き用にばかりかけていたのですが、

家着を新調したり、家具を買い足したり、バスタオルをもっと質のいいものに替えてみたり、

最近では面倒くさくて絶対管理するのは無理!と思っていた加湿器も愛用しています(笑)

 

家を居心地よくするのってこんなに楽しいことなんですね。

よく「丁寧に暮らす」を地で行ってらっしゃる方を見かけると、はー、すごいなあ、こんなにこまごま丁寧に管理していて面倒じゃないのかなあと思って拝見していたのですが、

実際QOLが上がると気持ちが安らかになりますし、

何よりなんでもない日が少し特別に、少しだけキラッと輝くように感じられるんですよね。

 

 

これまで与えてもらうことばかりを期待していた幸せを、少しでも自分の手で作り出せるんだという実感を得られたのは、私にとっては大きなことでした。

 

そして同時に初めて分かったように思います。

一週間は7日あるけど、平日の方が多くて、週末の休みは2日しかないこと

人生にはハレの日はあんまりなくて、ほとんどが何でもない日で構成されていること

 

文章にするまでもなく、本当にごく当たり前のことです。

でも、私が人として以前にオタクとして生きていた時には理解できていなかったんです。

そのほんの少しのハレの日の楽しみがあんまりにも大きすぎて、

つまらない毎日が人生の大部分に横たわっていることを、目に入れることもできなかった。

 

 

今、再び緊急事態宣言という時勢になりつつも、芸術の火を絶やさぬよう働きかけて下さっている方たちが存在しています。

お陰で紆余曲折ありながらも、きっと新しい社会の在り方と共存しながら、舞台やライブという楽しみをまた与えていただけるようになるのだと感じています。

 

再び現場という楽しみをこれまで通りに享受できるようになったら、

私はコロナ以前の自分に戻って現場に通い詰めるだろうか?と考えた時、

恐らくそれはNOであると思いました。

 

これまでの私は人間であることを大切にしていなかった。

人として生きることを疎かにしていました。

 

舞台やライブを観て楽しませていただくことは、本当に人生の中で得難い大きな喜びです。

でもそれは人生の中の喜ばしいスパイスであり、嗜好品であり、

主食ではなく、本章ではなく、メインではない…

 

私は現場以外に息づいている、自分の人生をちゃんとやらなくちゃいけないんだと感じるようになったからだと思います。

 

 

きっとこういうことを明文化するまでもなく、みんな自分の頭の中で理解した上で楽しんでいるのだろうなと思います。

私は気づくのが遅かったですね(^-^;

でも遅かったとしても、ようやく理解し、ちっぽけでもしょうもなくても、自分の手で幸せを作り出せたと感じられたのはとても大きなことだったと感じています。

 

 

そんなわけで、これまでは行ける日程のチケットはなるべく全部買い集めて、

平日ソワレに連日通い、ブロマを何十枚も買って…

という生活は終わりにしようかな、と考えるに至ったのです。

 

一公演につき1~3回観られたらそれでいいかな、と今は思っています。

これまでは自分が観られなかった回で推しの名場面があったらどうしよう!?という恐怖で、可能な限りチケットを集めていましたが(笑)

今はそれも巡り合わせだなあと受け入れられるように思います。

 

平日ソワレを毎日こなして、フラフラになってお風呂に20分で入り、とりあえず起きる!寝不足!死ねる!という生活ももうキツイなあと(笑)

 

ただ、確かに喜ばしい日々でした。

希望に満ちていました。

 

あの頃そうした濃い時間を過ごせたからこそ、私という人間は折り合いがつけられるようになったのかもしれないなあと思っています。

 

 

そんなこんなで元々細いオタクではありましたが、

更に更にコマコマの細細の零細オタクになった私なのでした。

 

これからは人として生活を送りつつ、そのベースの上に「オタクとしての私」を重ねて生きていくような、

そんな生き方をしていけたらなあと思います。*1

 

*1:そんなこと言いつつ現場が増えていきなりタガが外れてたりしたらすみません

はじめに

初めまして!

ここはとってもほそ〜いコマコマのコマコマの零細オタクが思ったことを忘備録として記す日記帳です。

 

かろうじて若手俳優のオタクをやっている…?というレベルの細さなので、読み答えのあるエピソードには欠けることでしょう。

 

オタクに命賭けてるわけでもなくて、ちまちまおこづかいの範囲でオタクやってる人ってどんな感じなの?ってご興味には沿える…かな?

 

さて忘備録を始める前に、明記しておきたいことがあります。

それは、私が書くものは誰かへのアンチテーゼではないということです。

 

私の考える意見と異なる人もいるでしょうし、その上で私はこう思う、という意見を述べることもあるかと思います。

ただ、そういう記載があったとしても、私は自分と異なる考え方の持ち主を否定する気はありません。

自分と違う生き方をしている人を否定する気もありません。

ただ違うだけ

 

私は私というちっぽけな存在が精一杯生きてる世界のことを記していきたいと思います。

何かへの反論ではなく、ただ私が感じたことを残しておくためだけに

 

そんなちいさな世界を、ここに作っていきたいと思います。