現実にミュート機能搭載はよ
先日現場があり、大変楽しい時間を過ごしてきました。
こうやって割と普通に現場がある生活が送れていて、新鮮な気持ちです。
昨年なんてもう現場は復旧せず過去の文化になってしまうのかな…と思っていましたが、案外経済っていうのは元の形に戻ろうとするものですね。
昨年現場という楽しみが激減したころ、
「オタクは現場以外の楽しみを見つけ、現場に割くお金は減っていく。
その過程で降りるオタクもいるだろう」
という論をよく目にし、私自身もそうなるだろうと思っていた節がありました。
現状、以前と全く同等という感じはまだしませんが、順調に現場が繋がっている感覚があるので、この頃の推論を自分が全くトレースした行動を取っているか?というとそうでもありません。
ただ、コロナを経て「いつか終わる趣味で、ないならないで生きていけるものなんだな」ということは骨身に沁みたところがありますので、
以前と全く同じ感情や熱があるか?というと、突き詰めればやはりもうそこには戻らないのかなあという感じがあります。
ある意味そういう諦め?のようなものが全身を貫いたことで、ある意味前より楽に楽しめている気もしますが。
さて、現場に行くと付き物なのが同担の存在ですが、
今回も私にとってはストレスの要因だったので、なるべく彼女たちを視界に入れないようにすることに難儀しました。
自分自身のブログにも少し触れた点なのですが、私がとにかく同担が苦手な大きな要因は
「その人の解釈を脳内に流し込まれるのが苦痛」
という点が最たるものになります。
どんな本でも映画でも、人の数だけ受け取り方があると思います。
でもそれが対人になると、突然全員にとって同じように見えてないということが理解できていない人が現れませんか?
私が特に我慢ならない同担は
「推しくんって○○だから!」
という主観をのべつ幕なしに押し付けてくる人です。
例えば会話のやりとりで
「推しって○○なところあるよね」
「わかるー」or「そうかな?」
なら不快感ないわけですよ。
彼女の苦手なところは
あくまで自分の主観にしか過ぎない推しの解釈を、たった一つの真実かのように主張するところです。
会話になってない。主張。
私にとって見えている推しは、私の目を通した存在でしかなくて、その時点である意味推し本人とも乖離した存在なんですよね。
だから、私が「この人はこういうところがあると思うなあ」と思うのは私の主観でしかないという前提です。
その上で「わかるわかる!そういうところあるよねw」って共感してくれる人が
いわゆる自分と気の合う人、感性の合う人なのだと思っています。
普通にお付き合いしている友人でも、感性の合う人を学校や勤め先の団体の中から選び取ってお付き合いしていると思うんですよ。
だから同担だって感覚が近い人とだけ付き合いたいって思うんですけど、
オタクという趣味においてはなぜかそういう選別行為はあまり良しとされないですよね。
先述の苦手な人はそういう選別行為を行わずに、同担は誰とでも仲がいい!ということを自分のセールスポイント(?)にされているような節がありますが、
その実、少し会話してみれば
「推しくんは○○だから!」
「推しくんはいつもこうだから!」
の主張の繰り返しで嫌な気持ちで胸がいっぱいになります。
私に見えている推しはそういう人じゃないし…とか、
いつもそうじゃないでしょ…とか心の中では思うんですけど
そこはそれ、オタク文化の不文律で積んでるオタクにだけ発言権があり、弱いオタクは黙るしかない、という暗黙のルールがあるじゃないですか。
だから一方的に言われっぱなしで許容するしか解はない、と思っています。零細オタク的には。
私はそういう声の大きな人ほどお金を出すことは絶対にできないので、
その人たちが発言権があり、現場を仕切ったりするのは仕方ないことだと思います。
その権利を買っているともいえるしね。
でも、その逆を言えば、私のチケットはその人たちに買ってもらったわけでもなし、
自分の自由な感想や解釈があったり、それを押し付けることなくひっそり一人で楽しむ権利はあると思うんですよね。
しかし声が大きくて積んでて、同担とみんな仲良しをやってますって人が関わってくれば、こちらは一方的に気を使わざる得ないわけですから、ただの接待なんですよ。
楽しいのはあなただけ。
そもそものパワーバランスが異なっているし、自分自身でもパワーバランスに大きく差があることを理解している振る舞いをしているのに、
「みんな大好きなお友達です!」
と言うのは詭弁だな、と感じます。
彼女のお友達の輪に参加するということは、
自分の解釈や自分の心の中に踏み込まれ、その人の解釈(自分と完全に解釈違い)の言葉で殴られ続けるような感覚になります。
だから申し訳ないけど私はその人が苦手です。
他人のフィールドへの尊重がない。
直近の現場は収容された人数も少なかったですし、公演内容的に貴重なものだったので、私にとってはよりその人に穢されたくないという気持ちが大きかったです。
私だけの受け取り方や私だけの解釈を大事にしたかった。*1
それでも現場に行けば皆さんがお友達だから、大声でいつもの推しに関する唯一の主張が耳に入ってくるわけなんですよ。
たまらなく苦痛でした。
終始耳に入ってくる解釈違いの大声でしたから…。
いくら言葉で同担拒否だなんて言ったって、現実はSNSとは違うから
苦手な人をミュートすれば話してくる内容が聞こえないなんて機能はない。*2
とにかくなるべく遠くに居られるように、今日はタイミングが合わなくて遭遇せずに済みますように、席が近くありませんように、
いつもそんなことを祈りながら現場に入ってて惨めになります。
その惨めさが沁みる時、一層彼女が大嫌いで私の世界から見えなくなって欲しいと願ってどうしようもなくなります。
でも、向こうも‘’何も悪いことなんてしてなくて、天真爛漫に楽しんでるだけの自分‘’
を許容しない人間なんて不快に思ってることだと思います。
私はそれ以外のオタクにも服装だの席だのファンサだのをチェックされてるようなので、
まあこんな難あり物件ですし、同担に対して優しい顔をして社交的に振舞っているわけではないので致し方ないなとは思います。
しかしまあ、そんな状況でそれに屈して降りたらそいつらが喜ぶじゃないですか?
それは嫌。
だから前みたいな熱気がなくても、楽しいこともあるし、なんか釈然としないし。と思ってこまこま通っている。そんな最近でした。